親たちは子供たちに対して理性的だろうか?いや、そうではない。愛情が理性的ではないので親たちは理性的でないのだ。若者たちはこのことをロマンチックな愛については理解できるが、親としての愛情にある同じように強烈な要素を受け入れがたいことに気付く。
これは先日の私の長女の質問に始まったことだ。「何か尋ねさせて、お父さん」と、あらゆる経験を積んだ親はよく知っている(のではないか)という熱望を辛抱強く制御した(ような)調子で彼女は始めた。
「私は17歳の時にヨットで地中海のあちこちを航海した」と彼女はゆっくりと、入念に声に出して言った。「私はスペインからパリまでピレネー山脈をハイキングした。岩も登ったし、深い海にも潜ったし、インドネシアのジャングルの熱帯雨林の中でも眠った。そうでしょ?」
「その通り」と、シャワーを浴びている最中に石けんが少し目に入ってひりひりしたら狂乱状態になるだろう人と同じように、私はこの詳細な話に身震いしながら言った。「だから何?」
「だからこれは」と彼女は続けた。「家に帰ってからシャンプーを買いに角の薬局まで出かけようとしているとき、道を渡るときには気をつけるようにいつも言うことがある?」
これに対して親が出せる満足のいくような答えはない。
返事として呟けることは、50歳の頃、母は私が物を忘れたときは窓の外にもたせ掛けておいてくれ、そしてまた速く車を走らせ過ぎないようにすることを思い出させてくれたということだけだ。もし私が80歳になって母が生きていたとすれば、同じ警告を受けるだろう。年齢に関わりなく、子供は子供なのだ。
子供がそれは理解しがたいことだとわかるという別の要因もある。子供たちが遠くへ行ってしまうと、安全や福利について私たちが出来ることは何もない。彼らは神の手の中にあるのだ。親たちは、もし子供たち(の人格など)を傷つければ、重大な電話や電報が永遠に来ないのではないかと期待して、それについては考えないようにしている。
しかし子供たちがもう一度近くに住むことになれば、昔の保護(したいという)衝動はすぐさま再び主張されることとなり、それはどのくらい遠いところにいたとかどのくらい長く離れていたかとか、どんな体験に耐えてきたのかとか、どれほど上手く生きていく能力を表に出してきたのかとかいうことは問題ではない。
結局、ほとんどの事故は曲がり角の付近で起こるのであり、熱帯雨林の中で起こるものではない。自然の力や野生の動物よりも、人間こそが人間に対する危険な障害である。ほとんどの生き物について言える最も本能的な行動は若さを保つことであり、人間について言えばこの反応は人生を通して持続する。
親心としては、子供は成長はしても年をとることはないのだ。理性的?そうではない。しかしもし私たちが全面的に理性的だったら、そもそも私たちは子供を欲しがるだろうか?
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