私たちの考えや知覚は常に信頼できるとは限らない。あなたは小さい子供の頃、地球が平らであると信じていなかっただろうか?それがあなたにそのように見えたから、あなたは恐らくそう考えたのだろう。また、しばらく帽子を被ってからそれを脱ぎ、まるでまだ被っているかのように感じた経験が今までにあるだろうか?
ギリシャのアテネのアクロポリスに建つパルテノン神殿は、世界で最も美しい建物の一つであると言われている。人々は特に、見たところまっすぐなその輪郭の質素さを愛している。しかし実際には真っ直ぐな線などないのだ。ある角度からみると直線は曲がって見えうるので、パルテノン神殿の輪郭は直線に見えるように曲がっているのである。パルテノン神殿は錯覚の建物であると言える。
人々は気付いていないが、多くの共通の認識は錯覚を含んでいる。錯覚とは、物体や出来事から私たちが得る情報がその間違った知覚や印象を引き起こす、特別な知覚体験のことである。
錯覚は私たちを騙す。面白いのは、私たちが時折このように騙されるのを楽しんでいるように見えることだ!手品師はいつも錯覚を使っている。それで彼らは時々奇術師と呼ばれるのだ。彼らがすることは錯覚を創り出すことだ。彼らは不可能なことはしない。彼らはただ、不可能なことが起きたという印象を与えるだけなのだ。
三角形が見えるだろうか?それは実際には存在しない。しかし、3つの像の角度はそれが存在するかのような印象を与える。これは閉包と呼ばれる錯覚である。つまりそれは、不完全な像を完成させたり閉じたりすることだ。閉包によって私たちは映画の動きを、静止画の連続というよりは滑らかに見ることが出来る。実は、映画に含まれるもう1つの錯覚がある。音である。俳優たちが喋る時、私たちは声がその口から聞こえてくると感じる。実のところ、音はスクリーンの横かなり離れたところや、私たちの後ろにすらあるスピーカーから聞こえてきているのだ。
もう1つの錯覚は、大きさ・重さ錯覚と呼ばれている。小さい袋、中くらいの大きさの袋、それから大きな袋を手に取る。小さな袋を重い本でいっぱいにする。重さを量った後、3つ全てが同じ重さになるように他の袋にも本を入れる。それぞれの袋を持ち上げてどれが一番重いか言うように誰かに頼む。全て重さは一緒なのに、小さい袋が他のよりもよっぽど重いと判断されることだろう。
ある程度、この錯覚は私たちの予測によって説明がつく。一番大きい袋を見ると、私たちは何か重いものを持ち上げる覚悟をする。本でいっぱいになってはいないので、それは簡単に持ち上がる。しかし一方で、小さな袋を持ち上げるのに苦しい思いをするとは予測しないので、私たちはその重さに驚くのである。たとえあなたがそれぞれの袋を自分で用意したとしても、その効果はとても強いため、それら全てが同じ重さであるとは疑わしいと思ってしまうかも知れないのだ。
1つの絵について2種類以上の解釈を含む錯覚もいくつかある。そんな1つの例が、図と地の錯覚と呼ばれる錯視である。このグループは、絵の白い部分か黒い部分のどちらに焦点を当てるかによって2種類の異なった解釈が出来る。よく知られた例がルビンの壺で、これは壺にも、お互いを見ている2人の人にも見ることが出来るものだ。
この絵をちょっと見てみよう。その真ん中に何が見えるだろうか?
どうやって像を関連づけるかによって、それは「13」にも文字の「B」にもなりうる。さて、このレッスンの最初の像に戻ろう。その中に何が見えるだろうか?答えを求めて、レッスンの最後の絵を見てみよう。
全ての錯覚が目に関係するわけではない。しばらくの間、いくらか温かい水が片方の手の上を流れ、もう一方の手の上を冷たい水が流れた後に両方とも生温い水に入れれば、冷たい手はとても温かく感じ、温かい手は冷たく感じるだろう。
錯覚は私たちや私たちの生活に何の関係があるのだろうか?何を私たちに伝えているのだろうか?下の文章を読んでみよう。私たちがどう物を見る傾向があるかについて、いくらか手がかりを与えてくれるかもしれない。
(ケンブリッジ大学の調査によれば、単語の文字がどういう順番であるかは問題ではなく、唯一重要なことは最初の文字と最後の文字が正しい場所にあることだという。残りが完全にごちゃ混ぜでも問題なく読むことが出来る。これは人間の脳が全ての文字を単独で読むのではなく、まとめて単語を読むからである。)
文字が全て混ぜ合わされているにもかかわらず、ほとんどの人は難なくこの文章を読んでしまう。一般的に言って私たちは、物を部分の集合としてではなく全体として、また見えるのを期待するような見方でも物を見る傾向がある。
外界について私たちが持つあらゆる経験から、私たちは外の物事や仲間の人間についての何かを学ぶ。ゆっくり時間をかけ、私たちは自分自身の世界の見方を形作るのである。しかしながら、私たちの経験や知識が基づくところである知覚が、これまで見たように常に信頼できるものではないとすれば、私たちの世界の見方も単なる錯覚になり得ないだろうか?私たちは他の人が自分と同じように物を見ると考えがちだが、一体誰が知っているだろうか?「私たちの」見方は私たちの物などでは全くなく、ただ私の物かあなたの物だけなのかもしれない。
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